戦国期に活躍した忍者その忍者の源流をたどる。

忍術発生の地理的・伝承的背景をさぐる

忍者とは何か?

ある目的をもって隠密行動を行なう、これが忍者である。そうかといって、たまたまその役割を受け持った者、偶然の奇功を得た者などは、忍者とはいえない。それでは、忍者が忍者として成立するのは何かといえば、ひとえにその技術が、職能にまで高められ、彼ら一族一党が〈職能集団〉として形づくられるところにある。その典型が、いわゆる伊賀者・甲賀者なのである。ごく一般的な忍者解釈もそうである。

「忍者は自国・他国に身を隠し、あるいは敵城の堅固なところへ忍び込んで、密事を知る者のことである」近来いうところの伊賀・甲賀者の類である。この道の上手がいて、その子孫に伝えられているので、このようにいう」(『武用弁略』)といい、また『近江輿地誌略』には、「伊賀・甲賀と号し、忍者という。敵の城中へ自由に忍び込み、密事を見聞して、味方に告知する者である」という。同書はつづけて、「ともに下賎の職にして、武士の職にあらず」とある。
他人の屋敷や城に忍び込み、密事を見聞するのは、指摘されるまでもなく賎しい行動だろう。が、彼らは忍技・忍芸を、忍道にまで高めようとした。

ある時期(延宝年間)に、彼らの代表によって総合的忍術伝書がつくられた。

『万川集海』(藤林保武著)ならびに『正忍記』(藤林正武著)である。
ことに『万川集海』は十一巻もの大部だが、将知(指揮者心得)、
陽忍(謀略)陰忍(潜入・奇襲)天時(天文・地理)忍器(忍術器具・火薬類)の諸篇に先立ち、まず〃正心″の一篇を置く。これは忍者の倫理・道徳、ないし節操を説いたもので、ここでも「そもそも、忍芸はほぼ盗賊の術に近し」と述べ、だからこそ〃正心″の必要性を強調したのである。


伊賀国ならびに近江国(滋賀県)甲賀郡は、かって〈甲伊一国〉といわれた

 伊賀・甲賀の地に、忍者の伝統が古くから保たれていたことの証拠といえよう。 そこで、彼らがなぜそのような伝統をもつにいたったのか、それは、とりもなおさず忍者の発生につながることだが、まず地理的条件があげられる。伊賀国ならびに近江国(滋賀県)甲賀郡は、かって〈甲伊一国〉といわれたように、地つづきの両地はともに都に近く、それでいて高くはないが険しい山々にとり囲まれ、一種の隠れ里の観がある。 伊賀の一地名である名張が、隠り(なばり)-隠れるを意味しているのが象徴的といっていい。ここには古来、中央での敗残者が亡命し、潜居した。

壬申の乱をはじめ、戦乱の余波が始終もち込まれ、軍勢が上下したり、ときに信楽宮が造営坐ごれるなど政治・戦略ともに特異な位置を占めている。
両地の国人・土豪は、彼ら亡命者を受け入れたが、それは中央の文物を包容し、 氏姓の混合をうながした。山間の地でありながら、情報に明るく、交流が広い理由 はここにある。両地はまた、同じような不思議・怪奇な伝承をもつ。
聖徳太子がそばに置いた〃圭心能備“は、伊賀国人の大伴細人であると伝えるし、甲賀一二郎の怪異讃や、四鬼を遣った藤原千方、怪盗伊勢義盛などの足跡がある。
飯道山、油[口岳、祝詞ヶ岳ほか、修験山も多い。都からみれば、霊的聖地のようであったろうし、心身の鍛練や薬種の研究など、具体的修行の成果もあった。これら無形の畏怖をともなう伝承は、隠密行動を行なう者の背景として、大いに 役立ったはずである。

何でもない行動が、誇大な不気味さとともに喧伝会ごれ、効果をあげただろう。重要なのはしかし、彼らが住み、育った社会体制にあり、それがそのまま戦国乱世までもちこされたところにある。

不可思議・不気味な忍者たち

忍者の源流をたどる

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戦国期に活躍した忍者たち。戦国期の心ある大名・武将は皆、いわゆる〃忍者“ないし〃忍者集団“をもっていた。忍者の行動の根本は、〈情報の収集、ならびに処理〉にある。事をなす者にとって、その必要性はいまも昔も変わらない。働き手の優劣はもとより、使う側の機構・判断力が、ただちに戦略にかかわるものだからである。そんな忍者の秘密に迫ってみました。