戦国期に活躍した忍者その忍者の源流をたどる。

能の大成者・観世家は伊賀服部氏の出である!

伊賀服部氏秦河勝から何百年かのち、散楽を昇華させる天才が出現した。観阿弥・世阿弥父子である。「秘すれば花なり。秘せずぱ花なるべからず、となり」(『風姿花伝』)という有名な言葉がある。〃花〃と称する秘伝の本義を秘するというわけだが、「そもそも、一切のこと、諸芸道において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆえなり。しかれば、秘事ということをあらわせば、させる事にてもなきものなり。これを、させる事にてもなし、という人は、いまだ秘事という事の大用を知らぬがゆえなり」と、これほど明確に〃秘の効用〃を説いたものはほかにない。あの造化神のごとき上忍の心を坊篠とさせるものだ。この観世家は、伊賀服部氏の出である。「伊賀杉内の服部氏に一二人の子があった。上はつぎつぎ早死したので、残った末子を連れ、大和の長谷寺に参詣する道すがら僧に会い、観世という名をつけてもらった」(『観世系譜ごこれは観阿弥清次のことだが、伸の世阿弥元清の弟の子が幸臼阿弥、その七子に小次郎信光雲という者がいて、この者の画像賛(画中に題する詩文)に、なっている。伊賀服部という武士出身であることを、多少誇りにしていたと思われる。この服部氏は、忍者としてもっとも有名な「服部半蔵」の姓である。陰の系譜の具体的なかたちとして、伊賀者、ひいては伊賀の大族服部氏こそ、忍者の源流を探る唯一の手がかりである。そこで、もう少しこの観世氏とのかかわりをみてみよう。昭和三十一年ころ、上野市の「上島氏文書」が紹介された。整理するとこうであ一、観阿弥は伊賀杉の内の服部信清の3男で、のち長谷の猿楽師に預けられた二、観阿弥の母親は、河内国玉櫛庄楠入道正遠の娘である三、観阿弥の妻は、伊賀小波多の領主、竹原大覚法師の娘である四、観阿弥の伯父は、服部行心入道で、所領が大和結崎にあったこれによると、観世家諸所伝は納得いくが、注目すべきは、しかし母親が楠正遠という人の娘であるということである。前にも触れたが、楠入道正遠は正成の父親と伝えられる人物である。古来、楠木正成ほど有名で、かつ素姓のわからない人物はいない。わずかに伝えられる『楠木氏系図』では、姓は橘氏、父の名は正遠とある。すると、観阿弥は正成の甥ということになる。個人的な伯父・甥の関係ばかりではなく、楠木一族と服部一族との関係が推察される。まだ、この文書を裏づけるなにものもない。また、観世家の服部氏が、忍者(上忍)服部半蔵の系統とどのような関係にあったかも明らかではない。が、姻戚関係を結んだとしても、決しておかしくないと思われる背景があった。すなわち前に述べた「悪党」の横行である。当時活躍した悪党楠木氏が、同じ悪党の匂いのする服部氏と結ばれて、なんの不思議もない。楠木氏は坐どらに、散所(古代、賎視された民の一つ)の長だったという説もある。だとしたら、賎視されていたにちがいない申(散)楽の座主と結ばれても、これまた不自然ではない。

不可思議・不気味な忍者たち

忍者の源流をたどる

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戦国期に活躍した忍者たち。戦国期の心ある大名・武将は皆、いわゆる〃忍者“ないし〃忍者集団“をもっていた。忍者の行動の根本は、〈情報の収集、ならびに処理〉にある。事をなす者にとって、その必要性はいまも昔も変わらない。働き手の優劣はもとより、使う側の機構・判断力が、ただちに戦略にかかわるものだからである。そんな忍者の秘密に迫ってみました。