戦国期に活躍した忍者その忍者の源流をたどる。

シルクロードを越えてやって来た歌舞曲芸

シルクロードを越えてやって来た歌舞曲芸塊侭シルクロードを越えてやって来た歌舞曲芸塊侭は、〈散楽〉に起源する。散楽の〃散″は、〃正〃に対するもので、実に対する空、庶俗野人の楽の意味だ。『晴書』の「音楽志」によれば、「北謙末の武平年間に、幻伎、俳優など、雑伎の奇怪異端、百有余物を百戯と名づけ、北周末の宣帝のとき、北斉の散楽人を京師に徴集−)て、百戯を行なった。晴文帝のとき、これらを放逐したが、揚帝の大業一一年、突厭の染干が来朝したのを機会に、四方の散楽を集め、大いに誇示した」という。散楽は庶民の娯楽だが、中国帝室でも古くからもてはやされ、帝の前で催されていたことがわかる。帝はまた、参内して来る辺地の使者に誇示し、驚かすことを好んだようだその内容は、多種多様だが、歌舞を除けばまず奇術・曲芸の類と思えばいい。

その散楽百戯の筆頭にあげられるのは、〈魚竜漫延〉というものである。さきの『塊偲記』の中にこの言葉があるから早くから日本にも知られていたのだろう。それほど大がかりで、驚かされる戯芸だが、陽帝が突廠(トルコ族の遊牧民)の染干に見せて誇示したというのがこれである。『漢儀』には、そのあらましをこう述べてある。「音楽とともに、舎利獣(骸骨獣)が西方から現われ、庭の隅で戯を演じ、終わると殿前へやって来る。すると水が激しく噴き上がり、舎利は比目魚と化し、跳躍して水を噴く。水は霧となり、陽をさえぎる。やがて八丈もの黄竜と化し、水から出て戯れているうちに、陽は輝いてくる。また、一一本の柱の間に大綱を張る。柱と柱の間は数丈もあり、一一人の伎女が向かい合って綱を張る。綱の上で肩をすり合わせて通りすぎ、トントンと足を踏み鳴らしてうずくまるや、〃身″を出し、〃形″を斗桶の中へ入れてしまう」最後の部分はよくわからないが、皮層をすっぽりむいてしまうことのようだ。後漢明帝のとき、宮城西門に平楽観という御殿がつくられた。ここで盛大に行なわれたが、『西京賦』に、その行なわれた諸戯が列記されている。

都麿尋撞と種は旗竿のこと竿に登って倒立したり

都麿尋撞と種は旗竿のこと。竿に登って、倒立したり、垂下したりする衝狭111矛をさした輪の中をくぐる燕濯水を張った水盤上を、両手を広げて飛び越え、そのさい足で水面を打つ跳丸剣のお手玉悟侶戯lふいに神山を出現させたり、種々の動物に化けたりする画地成川lまのあたりに山河をつくる呑刀吐火l刀剣を呑み、火を吐くこれ戸っには、すでに西域幻伎や仙術のようなものが入り込んでいることがわかる。

前漢武帝のとき、安息国(ペルシア)の使者が来て、蕊軒(エジプトのアレキサンドリアまたはペルシア湾岸のレケム地方)の幻術師を献上した。それから奇戯が盛んになった、という記録がある。後漢安帝のころ献上されてきた幻術師は、「われ海西の人なり」とみずから名乗ったそうだ。海西というと大秦、つまりローマである。当時のローマ王アントニウスは、ペルシァを破って治下としていたのだから、贈られた彼は、たぶんペルシア人だったのだろう。記録で見るかぎり、西域といってもペルシア幻術の伝来がほとんどである。そのいくつかは次のようだ。自縛自解・自支解111自分で自分の体をバラバラにして、また元へ戻す植瓜・種樹1種をまくと、ただちに瓜がなり、樹木に成長する。(生花術)屠人・裁馬‐11人と馬の首を斬り、つけ替えたり、元に戻したりするさらに、もう一つの要素が入ってくる。く神仙方術〉というものである。

不老不死の〃仙人術″

おおざっぱにいって、不老不死の〃仙人術″といっていいだろう。「老イテ死セザルヲ仙トイウ。仙ハ遷ナリ。遷ハ山二入ルナリ」(『釈名』)というわけだが、この神仙思想から方術が術化してきた。それらのいくぶん頓狂な内容は、『後漢書』の「方士列伝」に出ている。華陀神医と称され、五禽ノ戯というものをはじめた。虎・鹿・熊・猿・烏の五禽のように、体を前後左右に動かし、四肢を引き延ばす法である。徐登・趨柄lこの一一人は禁呪の方術に通じ、流水を止め、枯木に花を咲かせた.費長房護符で鬼神悪魔を自由に使った。左慈銅盤の中から、遠く離れた松江の魚を取り出すことができ、一升の酒、一片の肴で、百官を酔わせた。曹操(『一一一国士心』でおなじみの読王)が恐れて殺そうとすると、壁の中へ入ったり、羊に化けて羊群に入ったりして逃げた。これらの例でわかる通り、日本にもこの系統の妖怪讃がたノ、さん伝わっている。たとえば、平安時代の陰陽家、安倍晴明などが有名である。

このように、散楽は歌舞、音曲、体伎、仙術まで含まれるが、日本では、〈猿楽〉といった。藤原明衡の『新猿楽記』には、「予、一一十余季コノカタ、東西、一一京ヲ歴観スルニ、今夜猿楽見物バカリ見事ナルモノ、古今未ダアラズ」という書き出しで、芸伎の名が列挙されている。呪師、株儒舞い、田楽、偲偲、唐術、口中玉、輪鼓、八シ玉、独相撲、独双六、無骨有骨などという奇術や滑稽か芦っ、千秋万歳ノ酒祷、福広聖ノ袈裟求、といった舞劇のようなものまである。いうまでもなく、これらは渡来人によってもたらされ、一部は日本化されたものだが、もとはといえば、はるばるシルクロードを越えてやって来たのだった。なかなか感慨深いと思わないわけにはいかない。そのシルクロードの終着駅といわれている奈良東大寺の正倉院に、〈漆絵弾弓〉が蔵されている。長さ五尺三寸(約一・六メートル)の細長い弓の幅のそこには、漆絵で各種の鼓楽、曲技の図が描かれている。上方から下方に向かって、約九十人ばかりの人物群像だが、さきの「都慮尋撞」を演じていることも、よく確かめることができる。

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